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(2) 鑑真の二京遊学
鑑真は688年に揚州に生まれました。父は居士(在家にあって仏法を学ぶ人)で、大雲寺の智満禅師に学んでいました。鑑真は子供の頃から父に連れられて度々お寺に行き、仏教信仰の影響と薫陶を受け、衆生救済の情感が次第に醸成されていきました。14歳のとき、仏像を見て心の奥底から感動し、父に出家を願い、智満に学ぶことになりました。
705年の春、18歳になったばかりの頃、鑑真は会稽龍興寺の高僧道岸に菩薩戒を授けられました。道岸は天下四百余州授戒の主といわれた授戒師であり、五明学(古代インドにおける仏教の学問体系)に精通し、仏教建築の大家でありました。道岸は鑑真を一目して燦然と輝く才徳を看取し、弟子に迎え、五明学を教えようと考えました。
五明学
1 声明(しょうみょう) | 文字、音韻、語法などの学問 |
2 工巧明(くぎょうみょう) | 技術、工芸、美術、音楽、天文などの学問 |
3 医方明(いほうみょう) | 医学、薬学 |
4 因明(いんみょう) | 論理学 |
5 内明(ないみょう) | 仏学、教義 |
唐の時代、30年に一度、法門寺の仏舎利を宮殿に奉迎して供養し、国家安泰を願うことが行われていました。704年12月、則天武后は仏舎利を奉迎するため、高官と法蔵(華厳宗第三祖)、文網(南山律宗開祖道宣の高弟)の2人の高僧を法門寺に派遣しました。705年正月、仏舎利は洛陽に到着し、宮殿の内道場(皇宮内に設置された皇室の法事を行う場所)に安置され、供養が行われました。同年、中宗が復位し、供養が継承されました。706年10月、中宗は長安に還都し、仏舎利を長安の宮殿の内道場に奉迎しました。仏舎利の供養のため、天下の高僧が順次招請され、内道場で法要が営まれました。道岸も招請を受け、二京に向かい、鑑真も随行しました。
707年、鑑真は洛陽を経て長安に入りました。洛陽では白馬寺などの名山、名刹を巡りました。龍門石窟では、奉先寺の大仏(盧舎那仏座像)を仰ぎ見、深い感動を覚えました。則天武后の勅命を受けて善導(中国浄土宗第2祖。浄土教大成者)が監造したものです。長安に入ると、整然とした長安城の街並みの中に、慈恩寺、西明寺など、壮大、壮麗な寺院がいくつか造営されていました。仏殿、仏塔は洛陽のものとは違った建築風格のものでありました。中でも威容を誇ったのは、磚造の慈恩寺仏塔(大雁塔)でありました。入口左右の龕室(がんしつ)には、玄奘の経典翻訳を讃えた石碑(太宗の聖教序と高宗の記を褚遂良が書し、石に刻んだもの。後に2碑合わせて雁塔聖教序と呼ばれる)がありました。
鑑真は道岸の紹介で実際寺に住み、高僧弘景に付きました。弘景は文網から律学を学んだ後、荊州の玉泉寺(天台宗の開祖智顗の道場であった)で天台学を学び、天台宗第一の高僧になっていました。文網、道岸に同じく中宗から招請され、上京して実際寺に住んでいました。実際寺は皇室ゆかりの名刹で、戒壇がありました。善導が晩年を過ごしたお寺です。
707年、中宗は則天武后の記念として、薦福寺に仏塔を建立することを発心し、道岸を同寺の都維那(ついな。寺院内の事務をつかさどり、衆僧を監督する僧職。上座、寺主とあわせて三綱という)に任命するとともに、道岸と工部尚書(長官) 張錫に大加営飾の主持(統轄責任者)を命じました。薦福寺(元は王府であった)を修復して華麗な寺院装飾を施すとともに、伽藍を拡充し、慈恩寺仏塔と並び立つ仏塔を新たに建立しようとするものです。道岸を主持にしたことが功を奏し、慈悲にあずかろうと大勢の人が集まって労力を奉仕し、建設工事は遅滞なく進みました。鑑真も建造に加わり、道岸の下で設計に専心し、施工、装飾の実務も手掛けました。このときの経験が、後に仏教建築の大家となる礎となりました。薦福寺には法蔵、義浄の2人の高僧が住んでいて、拝顔することもありました。
道岸が設計した仏塔は、密檐式磚塔にあってエンタシスの輪郭を成し、最下層には纏腰を付けるという、巧緻、斬新、且つ格調の高いものでありました。新装、拡充された伽藍の中央後方に、荘厳にして秀麗、典雅な仏塔が空に聳え立つと、薦福寺には大寺院の風格と気品が漂いました。中宗は大変満足し、幾度となく足を運びました。この仏塔は、後に小雁塔と呼ばれました。その美しい造形は、中国早期密檐式磚塔の手本とされました。
宮殿の内道場には、法門寺から奉迎された仏舎利が安置され、順次招請された高僧によって法要が営まれていました。道岸も初めは何人かの高僧とともに内殿に住みました。道岸は老齢の高僧を恭敬して心を配り、皇帝に対しては尊厳を崩さず、高尚な姿勢に感銘した中宗(656-710)は衣鉢を賜いました。法要のために弘景が内道場に入るときは、鑑真が伴僧として付き従いました。707年の夏には、内道場で義浄と翻訳僧による坐夏(僧が夏に1か所に集まって3ヶ月間修行すること)が行われ、義浄も新しい経典を翻訳しました。
法門寺仏舎利の奉迎送 | 内道場で法要を営んだ高僧 |
法門寺仏舎利の奉迎送と内道場での供養 |
708年2月、仏舎利は中宗、妃らによって法門寺に奉送され、宝塔の地下宮殿に納められました。奉送には文網が陪随しました。奉送を終えた後、中宗、妃、家族は林光宮で、内尼は乾清宫で、授菩薩戒の儀式が執り行われました。授戒したのは文網、弘景、道岸、道亮でした。
仏舎利の法門寺奉送と皇室の授戒の儀式が終わり、708年3月、鑑真は実際寺にて登壇し、弘景より具足戒を授けられました。鑑真21歳、弘景75歳の時でありました。教授師を務めたのは道岸でありました(具足戒の授戒儀式は、三師七証といって、戒和尚、羯磨師、教授師の三師と、七名以上の証明師によって行われ、証明師全員の承認をもって授戒が成立する)。
皇室の法事は709年2月に一段落しました。壮齢の道岸は世話役として法事を采配しました。また、勅命を受けて、薦福寺の他、白馬寺、中興寺、庄厳寺、罔极寺などの皇室寺院の都維那を務めました。中宗は林光宮に道岸の肖像画を掲げ、自筆の賛辞を添えました。弘景は鑑真を最後の弟子として、同年秋に長安を離れ、荊州の玉泉寺に向かいました。中宗は詩を作って送りました。
学綜真典、観通実性。維持法務、綱統僧政。
律蔵冀兮伝芳、象教因乎光盛。
林光宮道岸肖像画に添えた中宗自筆の賛辞
鑑真は二京遊学中、三蔵(経蔵、律蔵、論蔵)の学究に励みました。天台宗の弘景からは、智顗(ちぎ)の天台止観(摩訶止観)などを学びました。当時、律宗は宗部宗、南山宗、東塔宗の三つの宗派に分かれていました。鑑真は南山宗の融済から道宣の四分律行事鈔などを学び、道岸の高弟義威から法励の四分律疏を学びました。さらに、義威に陪席し、相部宗の高僧満意の高弟大亮らからも四分律疏の奥義を学びました。
南山、相部両宗の系譜 | 律学(南山宗・相部宗)及び天台学の講授 |
鑑真は龍門大仏を仰ぎ見て以来、善導に敬慕の念を抱いていました。鑑真が住んだ実際寺には、善導によって数多くの観無量寿経変相図(観無量寿経疏の極楽浄土の世界を描いたもの)が描かれていました。寺内には長安城の最妙院と呼ばれた浄土堂が造営されていました。浄土の世界を立体的に表わしたものです。往生礼讃偈の梵唄(日本では声明と呼ばれている)が聞こえてくることもありました。鑑真は善導の息吹が残る実際寺で、浄土教も学びました。
慈恩寺の翻経院では玄奘所訳の経典が管理され、原典は大雁塔に納められていました。義浄所訳の経典は薦福寺の翻経院で管理され、原典は小雁塔に納められました。国立訳経場の興善寺には印度開皇三大師(耶舍大師,崛多大師,笈多大師)主訳の経典が管理されていました。鑑真はそれらの大量の経典を拝読、拝閲、抄写し、研究しました。
南山律宗の開祖道宣は医学家孫思邈(ばく)(千金方の編者)と親交が厚く、互いに啓発し合い、自らも医薬を研究しました。その影響、薫陶を受け、弟子の文網、その弟子の弘景、道岸も医薬・医学に深い造詣がありました。鑑真は弘景から律学、天台学と併せ、医薬・医学も学びました。鑑真は弘景に随行し、皇宮の太医署への出入りを許され、多くの名医に会い、最新の医薬・医学を学び、研究しました。
仏教寺院は、仏にまみえる場であり、道場(学問、修行の場)であり、弘法(ぐほう)の場ともなります。鑑真は二京の名山、名刹、石窟を巡り、伽藍、仏殿、仏塔を眺め、観察し、肌で感じ、研究しました。また、多くの仏像を拝し、それらの表情、姿勢をつぶさに観察し、研究しました。龍門石窟や造仏所では、彫像、塑像の技術、技法を見て学びました。
法要は法式に沿って執り行われ、読経の節目、合間、途中で法器や楽器が使用され、音楽(日本の雅楽のうち、唐楽に分類されるもの)が奏でられることもありました。仏を讃える梵唄も唱われました。大寺院の大法要や法門寺仏舎利供養・奉迎送では、宮中の演奏者、演舞者による音楽と舞が奉納されました。音楽や舞は人をも楽しませ、美しい旋律の梵唄は人の心を打ちました。鑑真は二京で多彩な法式、法器、楽器、音楽、梵唄を、見て聴いて学びました。
710年7月、中宗が急死しました。712年、713年には法蔵、義浄が薦福寺で円寂し、道岸は喪に服することが続きました。叡宗の復位の後、712年に玄宗が即位し、714年に仏教を抑制する政策が執られました。幾つかの皇室寺院の都維那であった道岸は、状況を見据え、腐心しました。予想外の長期滞在となり、玄宗から暇を取り、途中光州に寄って、716年に会稽の興龍寺に帰りました。翌717年、64歳で円寂しました。授戒宗主は義威が継承しました。
鑑真は、弘景に付き、また、道岸の後姿を見ながら、二京で三蔵(経、律、論)、仏教建築(伽藍、仏殿、仏塔)、仏教芸術(絵画、彫像・塑像、工芸、音楽)、医薬・医学を学び、研究し、713年、26歳の時、揚州の龍興寺(旧大雲寺)に帰りました。そして、龍興寺、大明寺で戒律の講授、弘法を開始しました。寺内に薬草園も作りました。建築技師、仏師、工芸士を養成し、淮南の80余の寺院を修造し、数多くの仏像を造りました。貧しい病人を救済する悲田院と、三宝(仏、法、僧)を供養する敬田院も創設しました。義威円寂の後、46歳にして授戒宗主を継承し、天下の大徳高僧としてその名は全国にとどろきました。多くの高僧を育て、四万人もの人に授戒しました。742年、55歳の時、日本の栄叡、普照の拝謁を受け、自ら渡東することを決意しました。11年に渡る苦難を乗り越えて日本の地を踏んだのは、753年、66歳の時のことでありました。
年表 ― 鑑真の二京遊学
補遺
鑑真円寂の後、弟子の思托は鑑真の事績を大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝(広伝)三巻に著わした。淡海三船は思托の要請を受け、広伝を基に鑑真和尚東征伝(東征伝)を著わした。東征伝は書名の通り、渡東を決意してからの事績であって、それ以前のことは繁多で具体的に記載することはできないとされ、二京遊学中のことも「巡遊二京、究学三蔵」としか書かれていない。二京遊学中の事績は広伝を参照すればよいのであるが、今は現存せず、逸文(引用されたりして他の現存する本に残っている文)が僅かに残っているにすぎない。中国では、鑑真がどのような環境で、どのようにして三蔵、仏教建築、絵画、彫塑、医薬・医学などを学び、研究したのか、当時の時代背景、高僧の伝記、広伝の逸文などから論考を加えてきている。本稿は、それらの論考を参考にし、伝記、逸文を追ってまとめたものであるが、明記できなかったところもある。それらを以下に示す。
- ①東征伝には705年に道岸から菩薩戒を授けられたと記されているが、場所は明記されていない。道岸は会稽龍興寺に住み、705年から弟子らと光州大蘇山で浄居寺を造営中であったようである。道岸が大雲寺に招かれて授戒した可能性もあれば、既に鑑真は道岸に弟子入りしていて、龍興寺又は大蘇山で受戒した可能性もある。本稿では場所は明記しなかった。
- ②中宗は法門寺仏舎利の供養のため、内道場を705年から709年2月まで設置し、順次高僧を招請している。道岸も度々招請されたようであるが、いつから招請され、いつ入京したかは明確でない。705年に洛陽に入って二京と光州大蘇山を往来した可能性もあれば、706年に洛陽に入り、同年10月の長安還都のときに仏舎利に陪従して長安に入った可能性もある。また、小雁塔建造の勅命を受けて707年に入った可能性もある。本稿では明記しなかった。
- ③東征伝には鑑真は707年に洛陽に寄(因)ってから長安に入ったと記されている。洛陽に入ったのは706年か707年か、道岸に随行したのは長安までか洛陽までか、随行した弟子は何人もいたのか鑑真1人か、などは明確でない。本稿では707年に長安に入ったことのみ明記した。
- ④小雁塔は中宗の景龍年間(707年―710年)に建造されたと記録にある。設計は707年から始まったとして、完工したのが709年なのか710年なのかは明確でない。本稿では、建立の年号を記す場合は709(710)年とした。
- ⑤宗高僧伝・弘景伝には弘景は文網の弟子であったと記されているが、年齢が文網より上であること、宗高僧伝・文網伝では道岸は弟子で弘景は法侶とされていることなどから、道宣の直弟子ではなかったかとも云われている。本稿では文網の弟子としたが、系譜にはその旨併記した。
- ⑥東征伝には二京に遊学し、三蔵を学究し、その後に淮南に帰ったと記されているが、いつ帰ったかは記されていない。最初の3年間は瞬く間に過ぎ去り、学究に専念できたのは4年目以降と思われる。本稿では大明寺志に準依して713年としたが、もっと長く滞在した可能性もある。
- ⑦道岸は、薦福寺仏塔の建立を終えた後は、長安での活動の記録がほとんどない。710年に中宗が急死し、712年、713年には薦福寺で法蔵、義浄が円寂している。また、玄宗は714年から仏教を抑制する政策を執り始めている。そうした背景があってのことと思われる。
- ⑧鑑真は二京で天台宗の高僧弘景に付いて天台止観を学び、併せて医薬・医学を学び、南山宗開祖道宣の高弟融済から四分律行事鈔などを学び、道岸の高弟義威及び宗部宗開祖法励の高弟満意の高弟大亮らから四分律疏を学んだ。具足戒の儀式では、弘景が授戒師、道岸が教授師を務めている。多忙であった道岸は弘景ら、多くの高僧にお願いし、鑑真が学ぶ環境を作ったと思われる。また、道岸に頼まれた高僧も、若くして才徳を備えた鑑真に接し、宗派を超え、指導、講授することに意義を感じたものと思われる。