まえがき
中国の西安に、エンタシスの輪郭をなした大変美しい磚(せん)塔が立っています。唐代の景龍年間(707-710)に薦福寺に建てられた仏塔で、その名を小雁塔といいます。
小雁塔は中宗の勅命を受けて鑑真の師、道岸が設計し、監修しました。二京(長安、洛陽)に遊学(故郷を離れて学ぶこと)中の鑑真も建造に参加し、実務を通して仏教建築の真髄を学びました。
小雁塔は1層に纏腰(てんよう)と呼ばれる副階が付けられ、たおやかな風情は矯夫人と形容されました。纏腰は時代を経て消失し、今は痕跡もありません。
小雁塔建立に相前後して、日本の奈良に法隆寺五重塔が再建されました。建立されて間もなく、1層に裳腰(もこし)と呼ばれる副階が付けられました。
時代考証、意匠考証の結果、纏腰と裳腰は同じものであって、裳腰の起源、語源は纏腰にあるのではないかと思うに至りました。
鑑真は二京で三蔵(経、律、論)、仏教建築、絵画、彫塑、工芸、医薬・医学を学び、研究しました。故郷揚州に帰ると、弘法(ぐほう)を開始し、薬草を栽培し、多くの高僧を育て、多くの寺を修造し、貧しい病人を救済し、4万人もの人に授戒しました。
鑑真は、後に11年に渡る苦難を乗り越え、日本に有形、無形の多くの唐代文化をもたらしました。鑑真が創建した唐招提寺の金堂は、唐代の建築風格を今に伝えています。
中将姫伝説で知られる當麻曼荼羅(根本曼荼羅)も、時代考証の結果、鑑真が大切にしていた二京遊学の思い出の品ではなかったかと思うに至りました。
小雁塔の歴史の中で、ある不思議な現象が見られました。地震で幅1尺ほどの一条の亀裂が塔頂から根元まで縦一直線に入り、次の地震で閉じたというのです。
人々はこれを神合と呼びました。その後も幾度か地震に襲われましたが、頂部が崩れはしたものの、倒壊することはなく、傾くこともありませんでした。
小雁塔が地震で倒壊せず、傾きもしないことは中国でも不思議に思われ、神合がどうして起きたかは謎とされています。
法隆寺五重塔も幾度か地震に襲われましたが、倒れることはなく、その耐震性の秘密は謎とされてきました。
小雁塔と法隆寺五重塔は、中国と日本で、ともに1300年余、地震に纏(まつ)わる謎を秘めたまま、美しい姿で人々に安らぎを与えてきました。
中国悠久の歴史の中で、小雁塔に何が起きたのか、神合の謎に魅せられ、1つの仮説を立てるに至りました。
2012年9月1日
稲葉 忠