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第1部 鑑真と小雁塔
(1) 大雁塔と小雁塔
唐の第2代皇帝太宗の648年、太子李治(後の第3代皇帝高宗)は亡くなった母を供養するため、大慈恩寺(以下、慈恩寺という)を改建しました。印度で仏法を学び、645年に仏典、仏像を長安に持ち帰った玄奘は、弘福寺の翻経院で翻訳に従事していました。翻訳は国家事業として行われていました。玄奘は慈恩寺の上座に迎えられると、寺内に翻経院を設置し、ここで翻訳事業を統率しました。玄奘の願いで652年に仏塔(慈恩寺仏塔)が建立され、仏典、仏像が納められました。印度の佛陀迦耶精舍を手本に玄奘自らが設計したものです。
高宗は683年に没し、高宗の冥福を祈るため、中宗の代の684年に献福寺が創建されました。中宗が住んでいた王府(皇族の住居)を改建したものです。献福寺は則天武后(武則天)の代の690年に大薦福寺(以下、薦福寺という)と改名されました。印度で仏法を学び、695年に仏典を洛陽に持ち帰った義浄は、仏授記寺に住み、翻訳に従事していました。翻訳は幾つかのお寺で行われていました。705年に中宗が復位し、706年に長安に還都すると、翻訳は薦福寺の翻経院で行われるようになり、義浄は同寺に住んで翻訳事業を統率しました。中宗の景龍年間(707-710)に、則天武后の記念として薦福寺に仏塔(薦福寺仏塔)が建立され、仏典が納められました。仏塔を設計、監修したのは道岸です。
慈恩寺仏塔は5層の楼格式磚塔で、高さは53mほどありました。701-704年に則天武后によって大改修が行われ、高さ70mを越える10層の塔となりました。薦福寺仏塔は15層の密檐(えん)式磚塔で、高さは46m程、最下層辺長は11m程ありました。
威風堂堂とした慈恩寺仏塔は“威丈夫”と称され、たおやかな風情の薦福寺仏塔は“嬌夫人”と称されました。また、その規模の違いをもって、後に“大雁塔”、“小雁塔”と呼ばれるようになりました。雁塔の名は、印度の仏教伝説に由来すると云われています。
大雁塔の大改修は、表面が磚(煉瓦)で中が土(心土)の壁であったため、この壁構造に起因して不具合がみられるようになり、磚の厚みを増して補強し、併せて既存の5層の上に5層を重ねるというものでした。その後も改修が繰り返され、現在は7層で、高さは63m程、最下層辺長は25m程あります。新設時は各層の壁面に仏像を安置した仏龕(ぶつがん)があったようですが、今はありません。薦福寺仏塔も、地震などで塔頂、上2層が崩れ、現在の高さは43.4mです。
年表 ― 玄奘、義浄と大雁塔、小雁塔
印度の仏教伝説によれば、かって仏教には大乗と小乗の両派があって、小乗仏教では三種の浄肉(殺生を見たり聞いたりせず、その疑いもない肉魚)であれば食してよいとされていた。ある日、菩薩の布施日に、小乗仏教寺院の僧侶が肉魚のおかずがないのをあきらめきれずにいると、一群の大雁が空を飛んできた。1人の僧侶がその大雁の群れを見て思わず「大慈大悲の菩薩様、今日は何の日かお忘れですか」と独り言をいうと、先頭の大雁が翼を折って目の前に落ちてきた。これは菩薩が霊験を見せたに違いないと思い、寺の僧侶たちは慌て青ざめ、その地に石塔を建て、肉食を断ち、大乗仏教に改信した。人々は僧を戒めるために菩薩が雁に化身して身を投じのだといい、仏塔を雁塔と呼んだ。(陕西旅遊資料網の説明文を和訳。荤腥は三種の浄肉とした。原文は玄奘の大唐西域記巻第九)
印度の仏教伝説